× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
![]() |
2.Femme ―女
普仏戦争さなかの1870年に誕生した第三共和政下のフランスでは、それまで農地だったモンマルトル界隈が歓楽街へと変わり、ファッションを競う貴婦人や懐の豊かな伊達男、カフェの個室で逢引きをする高級娼婦などで賑わっていた。ロシュシュアール大通りのブール・ノワールなどは庶民の憂さ晴らしの場だったが、89年10月にブランシュ広場の‘白い女王’の跡地に建てられたムーラン・ルージュには、社交と新奇なダンスを目当てに国内外から多くの貴人が訪れた。踊り子がプリンス・オブ・ウェールズにシャンパンをねだると、翌日には新聞がこぞってそれを書き立てた。 敷地内には遊具を設置した緑の庭園もあり、ダンス・ホールに入れない人々は2フランでそこのテーブルについた。が、当時の2フランはお針子や職人には大きな出費であり、やはり上流の客が多かった。 セバスチャンとシエルは燕尾服にシルクハットという装いでホールに入り、奥の席に座った。 シエルのシルクハットには銀糸の刺繍のついた大きなリボンが飾られていた。テールコートは背丈に合わせてやや短く、ベストにおさまりきらなかった黒いブラウスのひだが胸元に華を添えている。セバスチャンが用意した、目の色に合うルビーのピアスが柔らかい耳朶に光っていた。 シエルは煙草の煙を扇で避けながら、壁に貼られたシェレの黄色いポスターや当世風のシャンデリアなどを眺めた。子供が来ること自体が珍しく、二人のテーブルの周りにはちょっとした人だかりができた。画家も小説家も作曲家も皆二人の美しさを誉めそやし、その寡黙さからロシアの皇族ではないかと囁き合った。ロシア革命後、祖国を追われた多くのロシア貴族がパリにやって来ていたのである。 やがて10時にカドリールの踊り手たちが登場すると、人々はそちらを向いて大きな拍手を送った。シエルはふと、前座で歌い終わった歌手の一人がこちらを見ているのに気がついた。 シエルは試しに扇を開き、左手に持った。 (通じるだろうか?) 彼女は少し驚き、戸惑いながらもシエルのテーブルへと近づいて来た。 「今晩は」 「今晩は。あの、舞台からずっと見ていましたのよ―今日はなんだか、ラ・グリュウさん達よりお客を集めている人がいるなって」 ラ・グリュウはルノワールのモデルもつとめるエリゼ・モンマルトルのダンサーで、コンビを組んでいる骨なしヴァランタンと共に経営者のジョゼフ・オラーに引き抜かれてきたのである。 「貴女も以前は別の場所で?」 「エデンにおりました。エデン・コンセール、ジドラーさんが誘って下さって―私―病気の母がいて、稼がなくてはいけないものですから」 「ここの経営者はなかなかやり手のようですね…すると貴女は、エデンからオルフェの地獄へ来たわけだ」 踊り子達がオッフェンバックの『天国と地獄』に合わせて踊っているのを横目で見ながら、シエルはそう言った。 「でも、まだ芽が出ませんわ」 女は黒い手袋を嵌めた手を頬に添え、憂いを帯びた声でそう答えた。話し方は内気そうだったが、表情の豊かさは秘めた芸術的表現力を表しているように思えた。 セバスチャンはいつの間にか席を外していた。 「批評家の目に止まればいいんですよ。ゴシップ誌に記事を書いているような。あそこに座っている男、ルネ・メズルワでしょう…ああいうのが貴女のことを書けば、一気に注目されるはずです」 シエルは扇の陰で一人の男を差して言った。フランスを訪れるのは散々な思いをさせられたパリ万博以来で、人の名など知っているはずもなかったが、悪魔の力のおかげでそういうこともわかるようになったようだった。 女は化粧を直すふりをして鏡を取り出すと、ルネ・メズルワを確かめて頷き、シエルの赤い瞳をまじまじと見つめてこう言った。 「やれそうな気がしてきましたわ―教えていただいたお礼に、私に何かできることがあるかしら」 「お礼なんて…ああ、それでは、扇ことばを少し、教えて欲しいんだが…まあ、シャンパンでも飲みませんか」 その夜、二人はかなり酔ってから魔界に引き上げた。 「ふふ…ああ、頭がくらくらする」 「思いがけず、楽しまれたようですね」 「イヴェット・ギルベールか?…妬ける、か?」 もう、人間の世界には行かないと言い出すかもしれないな。シエルはそう思った。 だがセバスチャンは、シエルに意外な提案をした。 →next PR |
![]() |
※R18で道具を使用しているシーンがあります。 ※黒執事登場人物以外の人名は、全て実在した人物の名前です。 1.Frou Frou ―衣擦れの音 朝、起きると指輪が嵌まっていた。 二、三度向きを変え、光に透かして石を眺めた。 妖精の棲む森の霧が踊って、その姿が湧水に映っているような、月長石の美しい指輪だった。左手の薬指に嵌められていた。 (『月に誓って』…か?) シエルは夜具を被ったまま指輪を眺めて考えた。絹の擦れる音以外には何も聞こえない、静かな朝である。 セバスチャンはいない。 シエルは悪魔になってからも、なんとなく人間だった頃の習慣が抜けず睡眠をとるようにしていたが、セバスチャンはその間‘食事’に出かけているようだった。 そっと、指輪に口付ける。 (あいつも、したかもしれないな) シエルは顔を赤らめ、夜具に潜り込んだ。 次の朝、起きるとまた指輪が嵌まっていた。銀色の台に、太陽を頂く大海原のようなアクアマリンが燦然と輝いていた。 セバスチャンは隣で横になっていたが、シエルが目を覚ましたのに気付き、優しく微笑んだ。 「おはようございます、坊ちゃん」 朝のキスは甘い。 身体の何処かにはびこっていた飢えが癒されるように思った。未だ魂を食すことを知らないシエルのために、セバスチャンが自分を通して満たされるようにしているのかもしれなかった。 「…寝顔を見るなんて、悪趣味だな」 「ベッドを分けたいですか?」 「嫌だ」 「私も」 んん、とよく知っている胸に額をこすりつける。衣擦れの音さえ二人を邪魔する気がして、セバスチャンの着ているシャツのボタンを外すと直接頬をつけた。 住みなれた屋敷を捨てて始めた、二人だけの生活。もう一年になるが、満ち足りた日々が続いていた。 「…次は、嵌められる前に起きる。綺麗な指輪だ…」 「気に入っていただけましたか」 「ああ。…当ててみせようか、明日はきっと、アメジストだろう?」 「さあ、どうでしょう」 翌朝、シエルはいつもより少し早めに目を覚ました。魔界の鳥がまだいくつも起き出していない暗がりの中で、大きな瞳を開いて白い手を顔の前に翳した。指輪はなかった。いささかがっかりして、それでもクリスマスの朝の子供のように枕元を探すと、柔らかな紙に手が触れた。 『私の形:半月形 私が活躍する場所:パーティー 私の格言:蝶 私の敵:禁欲 私の主題:イエスとノーの間』 シエルは夜具を跳ね退けて、真っ白なクロスを掛けた大きなテーブルの上を隈なく見た。 それは揺れるカーテンの下に、波打ち際の貝のように見え隠れしていた。透かし彫りの象牙に金箔を押した細長い箱で、中には、思った通り小さな扇が入っていた。 白い親骨にはダイアナの花―貞操を表すイタリアニンジンボクが彫られている。三層に張られた絹の面に描かれているのは『夏の夜の夢』の一場面だった。親骨から垂れた紐の先に、小鳥の卵のようなローズクォーツがぶら下がっていた。 シエルは扇の紐を手首に巻き、ライサンダーと手を取り合うハーミアの黒い髪を見つめた。いつの間にか来ていたセバスチャンが、後ろからそっと手を添えた。 「…私の花はほほのばら色、私の理想はトリアノン。…全て答えが『扇』になるなぞなぞだ」 「坊ちゃん、扇ことばというものをご存じですか?」 「扇ことば?」 「ええ、…例えば、開いた状態で左手に持つのは『私に話しかけに来て』…閉じた扇を心臓に当てるのは『あなたは私の心を射止めた』といった具合に」 「図々しいぞ、というのは」 セバスチャンは扇をパタパタと閉じさせ、フェンシングの突きのように宙を威して見せた。カーテンの裾が舞い上がり、ローズクォーツが朝の光を弾いた。シエルは振り返って、半開きの扇で下唇を叩いた。黒いシャンティレースの袖口にローズクォーツが隠れた。セバスチャンは細い手首を握って指先で紐を弄び、誘いに応えた。時折唇を離して「飲み込みが早いですね」等とからかうのも忘れずに。 「今日はそれを持って、人間の世界に遊びに参りませんか」 「人間の世界の…どこへ?」 「一年前に開店した、ムーラン・ルージュへ」 →next |
![]() |
|
![]() |